【この記事を書いた人】横浜のクラシカルホメオパス山田千鶴子。パニック障害で10年苦しんだが、ホメオパシーレメディに出会いパニック克服。2010年よりホメオパス。心身の問題に悩む全国多数のクライアントさんをサポートする。詳しいプロフィールはコチラ |
5月末に母が95歳で亡くなりました。
想像していたようなとんでもない喪失感もなく、母との最後の数ヶ月も振り返ると良い時間でした。
ホメオパシーも相当貢献していたと思うので、母の最後の日々についてブログに書いてみたいと思います。
(長いので興味ある方だけだけ読んでください^^;)
父が亡くなったあと、足腰に不安がある母は約8年老人ホームで暮らしていました。
直感冴える健康な母
そもそもこの老人ホーム選びが素晴らしかった。
当時、母と一緒にいくつかのホームを回って検討する予定だったのですが、母は一軒目で「ここがいい!もうほかは見なくていい!」といいました。
そうは言ってもやはり相当の投資をするわけで簡単に引っ越せないんだからほかも一応見ない? といっても頑として譲らず。
結果、母の直感通り、母が選んだ老人ホームは最高でした。
優しいプロフェッショナルが揃った施設で、最後までしっかりと細やかなお世話をしていただきました。
直感というのは、小さな顕在意識レベルだけではない自分全体の情報ネットワークを使った総合判断です。
母は、この直感が冴えている人でした。
直感が冴えているというのは健康ということです。
95歳で亡くなるまで、母の唯一の問題は肥満と脚の弱さだけで、ほかはいたって元気。
ホメオパシー的にも非常に明確にあるレメディ像そのものだったので、ずっとそのレメディをのんでいました。
(健康度が高い人ほど、レメディ像がクリアです)
そんな健康な母でしたが、死の2か月くらい前から股関節の脱臼グセがつきました。
脱臼しても病院に行けばすぐまた関節は元通りになるのですが、何度も救急搬送になるのも困る。。
脱臼を防ぐための措置として、次第に行動の自由が制限されるようになりました。
細かいことは省きますが、そうしているうちに自分では立ち上がれなくなり、一人で行けていたトイレに行けなくなりました。
急激に全体的バランスが崩れはじめた
そのあたりから、急速に母の全体的バランスが崩れ始めたと思います。
やはり人に排泄の介助をしてもらうというのは自尊心が傷つくことで、たぶん心が傷つかない自然の仕組みとして人は痴呆の方向に向かうのだと思います。
おしゃべりで明晰だった母の頭に霞がかかったようになり、少しずつ抽象概念が理解できなくなり、何かを思い出せないことがでてきました。
この頃が一番悲しかった気がします。
ワガママで元気で頭のいい母が目の前で少しずつ死んでいく感覚があって、毎日怖かった。
昔のことはよく覚えているので、脳を活性化させるために昔のアルバムを見せたりしました。
アルバムの白黒写真の中には、若いおしゃれな母と真面目そうな父がいました。
古い写真を見ると母の人生を自然に俯瞰し、感謝がこみあげてきました。
母は、「慈愛に満ちた優しいおかあさん」タイプでは全くありません!
超ワガママだったし、疲れているとヒステリックな怒り方をして家族中から「おトラさん(寅年生まれ)が怒ってる~」と恐れられていた母です。。
でも、色々問題はあるにせよ(笑)一生懸命子育てしていたなあ。。
とアルバムを見ると思いました。
楽しいときはすごく楽しい人だったし。
昔、「私を妊娠したときどう思った?」と母に聞いたことも思い出しました。
母は「妊娠してものすごく嬉しかった。あなたがお腹にいる間中ずっとハッピーだった」と答えてくれました。
そんなことも思い出し、素敵な人生のスタートをプレゼントしてくれたんだなと胸が熱くもなりました。
要求は激しいし、ガミガミ屋だし、介護(というほどじゃないですが)してると腹立つことも多い母ですが、時々ものすごい絶対的な母の愛情を見せてくれることもあって、あ~、こんなふうに私のことを絶対的に愛してくれる存在は、母がいなくなったらもうこの世にいなくなるんだ。。
と思うと前から時々怖いような気持ちになることがありました。
母が亡くなったら私大丈夫かな?
と思っていたのです。
それが。。
意外なことに実際亡くなってみたらそれほど喪失感もないし、それほど悲しみにくれるわけでもありませんでした。
これどういうことなんだろう。。とずっと考えていて最近思っているのはこういうことです。
母がまあまあ幸せだったと思える
まず、母自身がまあまあ幸せな人生を全うしたこと。
本人じゃないので本当のところはわからないですが、最後まで、物理的にも精神的にもまあまあ快適に楽しく暮らせたと思います。
亡くなった後、母の仲良しだったホーム入居者3人にご挨拶に行きましたが、みなさん泣いて母の死を悼んでくださいました。
友達が多かった母は、老人ホームでも友達やヘルパーさんたちに愛されていたようで、安心しました。
最後に母と濃密な時間をすごせた
それから、脱臼以降、生体バランスが一気に崩れ、救急搬送されることが何度かあり、病院に駆けつけることが重なりました。
物理的には大変で心休まらない日々だったけれども、私が行くと母が安心してくれるので、コロナ過の中で母と一緒にいる時間が増えたのは逆に良かったなあと思います。
最後に母と心の交流ができたこと
それから最後に、これが一番大きいと思うのですが、死の直前に母と深い心の交流ができました。
数日前からものを一切食べなくなりそろそろ危ない。。ということで老人ホームの施設長がお別れの時間をくださいました。
妹と姪と3人で母の部屋に行って、40分じっくり母と話すことができたのです。
(それまでは、コロナのため、施設の玄関ホールで2メートル離れて話すという状態でした)
この時の母はすごかった!!
それまで頭に霞がかかっていたのが嘘のようにクリアなマインド。
肉体的には瀕死です。
栄養が全然入っていないし、心臓も弱っているし。。
目も開かないし声もでない状態ですが、私たちの話す言葉が隅々までよく理解できて、質問すると明確にうなずいたり首を横に振ったりしてしっかりと「会話」ができました。
楽しかった思い出話をしたり色々なことを話しましたが、私的には母にありがとうを言えたのが大きかった。
心の中で思っていても面と向かって言うのは恥ずかしくて言えなかったのが、初めてしっかりと感謝を伝えることができました。
澄み切った母の心と魂が、それをしっかり受け止めてくれた実感があります。
あとビックリしたこともありました。
ビーマライトペンという光のエネルギーをつかうセラピーがあるのですが、一応その道具も持っていって横たわる母のチャクラに光をあてました。
第3チャクラにイエローの光をあてたところ、な、なんと目をつぶったままの母が大きな口を開けて大笑いしたのです!
(声は出なかったけど、笑ってました)
第3チャクラに黄色の光は「ジョイ」のエネルギーです。
前から時々ビーマライトを母にあてると反応が良かったのですが、死の間際はやはり光の存在に近くなっているせいなのか、この反応には妹たちと思わず顔を見合わせました。。
話して話して40分。
「疲れた?」と聞くと「うんうん」とうなずくので、帰ることにしました。
そして部屋の入り口で「じゃあね~、またね」といつものように声をかけると、
なんと母は右手を高々とあげて手を振りました。
3~4回、右手を大きくあげてバイバイと手を振ったのです。
そして翌日、朝の5時に施設から電話がありました。
「お母様が息をしていません」
なんという見事な最後!
子どもたちとしっかり話をしてこれでもういいと思って行ったのだと思います。
父のときもそうでしたが、(介護とホメオパシー:父の最期の日々)
母もまた、自分の意思でこの世界を飛び立っていったと確信します。
ただ、父のときとちょっとだけ違うことがあります。
父のときは、亡くなった後見上げる並木の葉っぱの中や空に父がいるような気がしました。
母の場合は外ではなく私の中にいる感じがします。
私の中にいる母
「○○さんは私たちの心の中に生き続けている」という言葉をよく聞きますが、こういうのって言葉の綾だとずっと思っていました。
でも母については本当に私の心の中に生き続けている。
肉体は滅びたけど、そもそも肉体はあまり意味がないというか。。
若いときの母との思い出も、年とってからのことも、結局すべて実体ではなく私の記憶の中にしか存在しないわけで。。
そういう意味では、母の存在も私の心の中にあるかぎり、永遠に失われないのではないか。。なんて思う今日このごろです。
写真の真っ白な紫陽花は、母が亡くなった日の翌朝に撮りました。
いつのまにか紫陽花の季節は終わりましたが、母の存在は変わらずここにあります。
こんなふうに母との別れを迎えることができたのは、やはりホメオパシーがあったからだなあと思います。
母はもともと健康なタイプだとは思いますが、95歳の死の直前まで本当に元気だったのはレメディのサポートがあったからです。
月に2回一緒にランチを食べにでかけていましたが、最後までお寿司やカキフライなどをモリモリ平らげていました^^
一緒に色々なことを楽しむ時間、関係性を深めていく時間を、ホメオパシーはプレゼントしてくれました。
「ママは健康なので、寝たきりになったりしない。絶対ピンピンコロリで行けるからね」という約束も、まあ守れたかなと思っています♪
ホメオパシーって何?という方はコチラをどうぞ→クラシカルホメオパシーがスッキリわかる無料メール講座